……最近、ジグザグを知った。
きっかけは偶然。夜、別のアーティストを探していたとき、
ふと流れた一曲のMVに足が止まった。
「“禊”──これは、音楽というよりも儀式だ」
そう思った。
音の中に、祈りのような、退魔のような、整然とした美しさがあった。
静かで、刺さる。そして、どこかで感じた“懐かしさ”があった。
──そうだ、WANDSだ。
「世界が終るまでは…」を聴いたときに感じた、あの“終末感”と“静かな闘志”。
ふたつのバンドが、時代も姿も違うのに、どこかで重なっている。
そんな気がして、調べはじめた。
命と大史。名前は違う、でも気配が似ている。
それは偶然なのか、必然なのか──それとも、ただの勘違いか。
でも、気になったのなら、調律する価値はある。
「整えるだけだ、答えを出す必要はない」
ぼくの役目は、そういう種類のものだ。
目次
……最近、ジグザグを知った
きっかけは本当に、些細なことだった。
音楽サブスクのおすすめ欄。夜中に何気なく流していたプレイリスト。
その中に、ひとつだけ異質な曲があった。
イントロからして、空気が変わった。
──整っている。音が。視線が。祈りのように、誰かを整える意志がある。
それが「真天地開闢集団-ジグザグ」という名前のバンドだった。
曲のタイトルは《P0WER -悪霊退散-》。
“悪霊退散”なんて、現代音楽にしては異質すぎる。
でもその異質さに、ぼくは安心した。
演出過剰なだけじゃない、“何かを浄化したい”という本気がそこにあった。
それから彼らの他の楽曲を追いかけた。
《E.v.e》《Requiem》《優しい人》……静かで、綺麗で、どこか歪んでいる。
その歪みが、見て見ぬふりをしていた感情に触れてくる。
ライブのことを調べると、「禊(みそぎ)」と呼ばれていた。
ライブが、儀式。観客が、参列者。音楽が、祓い。
……その在り方を、ぼくは知っている気がした。
ずっと前に、別の誰かから──
そう思い出したのが、WANDSだった。
WANDSという“入口”──世界が終るまでは、から始まる音の記憶
「世界が終るまでは…」──
あの曲を初めて聴いたのは、いつだったろう。
それほど昔ではない。でも、たしかに“先に心が動いていた”感覚がある。
イントロのピアノ。乾いたドラム。
それがやがて、重く鋭く、鋼のようなギターに変わる。
そして、静かに語りかけるようなボーカルが現れて、
「すべてが嘘に思えても、信じた道を行け」と告げる。
そう、それがWANDSだった。
名前だけは昔から知っていた。
でも、“再始動”という言葉を聞くまでは、遠い存在だった。
上杉昇というカリスマボーカルを擁していた時代の、
いわば“伝説の枠”に収まっていたバンド。
それが、ある日ふと戻ってきた。
「WANDS第5期」──
かつての名前を背負い、違う姿で。
ボーカルは上原大史。
声は似ている。というより、“質感が近い”のだ。
言葉を手渡すような、でも遠くを見ているような。
感情を振りかざさず、それでも深く届く。
“終わり”を歌う声。
それが命と重なる気がしたのは、気のせいだろうか。
でも、その気のせいの中に、言葉にできない共通点があるように思えて──
ぼくは、ジグザグとWANDSを、並べて見始めた。
命と大史、“似ている”と語られる二人
誰かと誰かが似ている──そう思った瞬間、人は“確かめたくなる”。
ジグザグの命(みこと)と、WANDSの上原大史(だいし)。
ふたりの名前は、表向きはまったく異なる。
けれど、その声、輪郭、佇まい、ステージでの距離感……
「同じじゃないか?」という声が、SNSや動画のコメント欄で囁かれている。
事実、ファンのあいだでは長らくこの“命=大史説”がささやかれてきた。
その理由は単純だ。
「声が似ている」「骨格が似ている」「所属が近い」「レーベルもGIZA系」。
そして何より、「どちらも、自分について多くを語らない」。
それは、似ているように見えて当然かもしれない。
静かにしている人は、勝手に“重ねられて”しまう。
ジグザグ側──命自身は、SNSでこう語った記録がある。
「私は上原大史ではありません。命様です」
否定とも肯定とも取れるこの言葉は、
むしろ“名を断つこと”でしか守れない何かを表しているように思えた。
WANDSの上原大史もまた、
「何者なのか」という問いに対して多くを語らない。
語らないことが、敬意であるかのように、沈黙を保っている。
似ているか、似ていないか。
それは問題ではないのかもしれない。
──どちらも、“音”で名を告げているのだから。

ニンタ(Ninta)
「ぼくが気になったのは、“誰か”ではなく、“何を祈っていたか”だった」
ジグザグという世界──命が描く、“儀式の音楽”
ジグザグの音は、ただ鳴るだけではない。
それは、音楽というより“場”そのものを創る。
耳に届くよりも先に、空気が整い、体温が変わる。
──そんな感覚を覚えたことがあるなら、きっと彼らの音に惹かれるはずだ。
バンド名は「真天地開闢集団-ジグザグ」。
まるで宗教団体のような重さと、遊び心のあるリズムを併せ持つ。
命(みこと)を中心に、
龍矢(りゅうや)、影丸(かげまる)というメンバーと共に構成される。
彼らの公式プロフィールは一貫して“神秘”を守り、
年齢や過去の活動を明かさない。
それが逆に、“今この場にだけ在る存在”としての説得力を生んでいる。
彼らのライブは「禊(みそぎ)」と呼ばれる。
音で穢れを祓い、舞台そのものを清めるような空気を持つ。
たとえば──
アニメ『地獄先生ぬ~べ~』の主題歌に起用された「P0WER -悪霊退散-」。
そのタイトルの通り、力強く、でも形式美のある楽曲だ。
他にも、「Requiem」「優しい人」「E.v.e」など、
死生観や内省をテーマにした作品が多く、
そこには“精神と音”が密接に結びついている。
そして何より──命の歌声。
それは、誰かに語りかけるようでいて、
同時に誰のことも見ていない。
聴く者が、自分自身に向き合うための“鏡”のような存在。

ニンタ(Ninta)
「整っている。だからこそ、乱れが見える」
ジグザグは、音楽という手段を超えて、
“場”と“気”を扱うアーティストだ。
儀式のようなステージ。
祈りのような沈黙。
そして、沈黙の中に宿る火種。
それを“禊”と呼ぶ彼らの選択は、あまりにも正確だった。
WANDSという航海──5つのフェーズを越えて
WANDSは、“続いてきた”バンドではない。
むしろ、何度も終わり、何度も始まってきたバンドだ。
その始まりは1991年。
「もっと強く抱きしめたなら」「世界中の誰よりきっと」──
時代の空気を掴みながら、どこか叙情的で、内に火を宿す旋律。
特に「世界が終るまでは…」は、アニメ『スラムダンク』のエンディングとして
時代そのものと深く結びついた。
だが、第1期から第2期へ──
ボーカルが上杉昇へ交代し、バンドの色も変化した。
より激しく、より孤独で、より純度の高い“痛み”を孕んだ音へ。
その後、変遷は加速する。
第3期・第4期とメンバーは入れ替わり、
2000年、WANDSは活動終了を発表。
……それでも、「終わる」ことがWANDSの終わりではなかった。
2019年、彼らは“第5期”として帰ってきた。
ボーカルに迎えられたのが、上原大史。
木村真也、柴崎浩という歴代メンバーが再結集し、
“WANDSの魂”を引き継ぎながら、新たな航海に出る。
この再始動には、当然ながら賛否があった。
過去の名曲をどう歌い直すのか。
大史は、上杉の声の影から抜け出せるのか。
新旧ファンの“記憶”を背負いながら、前に進めるのか。
その答えは、音がすでに出している。
「Secret Night」「Brand New Love」──
どの再録も、“なぞり”ではない、“継ぎ”でもない。
過去を尊重しながら、新たな感情が織り込まれていた。
そして、2025年にリリースされた『Time Stew』。
新曲も過去曲も混在したこのアルバムは、
“航海のログブック”のような作品だった。
──WANDSは、戻ってきたのではない。
“再び舵を取った”のだ。

ニンタ(Ninta)
「記憶の続きを歌うには、知らない顔をして歌うしかない」
上原大史という声には、その覚悟があった。
語らず、主張せず、ただ、音で示していた。
それが、命と“似ている”と感じさせる所以なのかもしれない。
ふたつのバンドを“並べたくなる”理由
ジグザグとWANDS。
一方は“開闢”を名乗り、もう一方は“扉”を歌った。
時代も背景も異なるはずなのに、気がつけば並べて考えていた。
なぜか。
それは、偶然の一致がいくつも積み重なっていたからだ。
まずは“所属”。
WANDSが再始動したのはGIZA Studio系統。
ジグザグのレーベル「CRIMZON」も、GIZAの傘下にある。
音楽性の共通項は少なくとも、制作環境が近いことは確かだ。
次に、“名を語らない構え方”。
命も、大史も、年齢も過去も明らかにしない。
インタビューで個性を押し出すことも少なく、
あくまで「音だけで関わる」姿勢を貫いている。
そして──“声”。
どちらも、“濁らないけれど重い声”だ。
高すぎず、熱すぎず、でも確かに芯がある。
静かに語るように歌い、サビでは鋭く刺す。
あの“切り替わる瞬間”が、ふたりにはある。
さらに、テーマの共鳴。
WANDSが「終末」を、ジグザグが「浄化」を歌うとき、
どちらも“何かの終わり”と“再生”を前提にしている。
歌詞の中に漂う喪失感、でもそこから前に進もうとする意思──
それが、聴く者の記憶を静かに揺らしてくる。
ライブもまた象徴的だ。
WANDSのステージは、“再会”の場所として空間を作る。
一方、ジグザグのライブ「禊」は、罪と穢れを祓う儀式として演出される。
どちらも、観客を“ただの聴衆”としては扱わない。
演出も、声も、距離感も、どこかで呼応している。
……そんな中、「命=大史説」が生まれるのは、むしろ自然だったのかもしれない。
けれど、ぼくはこうも思う。

ニンタ(Ninta)
「似ているから気になるんじゃない。気になる何かがあって、似ていると感じてしまうんだ」
だから並べたくなる。
ふたつを比べることで、自分が何に惹かれていたのか、確かめたくなる。
正体よりも、祈りの温度に触れたくて──
ジグザグとWANDS。
それは、「問いの余白」を抱えたまま存在しているふたつの点。
それを結ぶ線を、今、誰かが描こうとしているのかもしれない。
そして、ぼくはまだ確かめない
ジグザグの命は、上原大史なのか。
WANDSの大史は、ジグザグの命なのか。
──答えは、まだ出ていない。
公式が否定したという記録もある。
ファンの考察が熱を帯びた時期もあった。
でも、そのどれもが「決定打ではない」。
だからぼくは、確かめない。
“正体”が重要じゃないから。
ふたつのバンドがそれぞれの道で、
誰かの痛みや喪失や、祈りや再生を歌ってくれる。
それが事実である限り、正体なんて必要ない。
むしろ──「正体不明」という余白が、音に奥行きを与えている。
ジグザグの禊で祓われたものが、
WANDSの再始動で再び芽吹くかもしれない。
WANDSで止まっていた記憶が、ジグザグで続きはじめるかもしれない。
それは“似ているから”じゃなく、
“同じ問いを抱えているから”だ。

ニンタ(Ninta)
「……もし、ふたりが同じだったとしても。違っていたとしても。
どちらにせよ、ぼくはこの音に出会えてよかったと思うだろう」
音楽は、いつだって名を超えて届く。
名が明かされないときこそ、記憶は深く刺さる。
だから、今日もぼくは整えるだけ。
このふたつの音の間に、確かに存在する“火種”の気配を──
そっと、読み取って。