目次
1. 「なぜ音楽なのか?」を突き詰める意味
音楽が、人生の中心だった。
誰にも評価されなくても、それでも続けたいと思った──
そんな感覚がある人は、きっと音楽と“生きて”いるのだと思う。
「なぜ自分は音楽なのか?」という問いには、明確な答えがなくてもいい。
何度も揺れ、迷い、再確認しながら、それでもまた音を鳴らしたくなる。
その“戻ってきてしまう理由”こそが、生き方に繋がっている証だ。
技術でも、ジャンルでもなく、まずは“音への衝動”に耳を澄ませる。
その衝動が原点になるからこそ、迷ったときの羅針盤になる。
表現とは、自分を知る旅でもある。音楽を通してしか気づけない自分がいる、
という実感を持つ人も多い。だからこそ、音楽と共に生きる人は、つねに“問い”を抱えている。
それは一種の“対話”でもある。音との、感情との、自分自身との対話。
言葉にできない何かを、音で表現しようとする行為は、自分の内側を掘り下げる行為でもある。
音楽とは、聴かせるものでもあり、自分に聴かせるものでもあるのだ。
2. 音楽と仕事の線引き/“売れる”とは?
「売れる音楽」と「やりたい音楽」。
それが同じとは限らない。
理想と現実の間で悩むとき、いちばん大切なのは、“純度の高い場所”を手放さないことだ。
すべてを商業的に割り切らなくてもいい。たとえば提供する楽曲と、自分名義の曲を明確に分ける。
フリーで動ける場所と、委託や受注で動く場面を意識的に切り替える。
また、活動の中で得られる“対価”は、お金だけとは限らない。
人の反応、つながり、共感。そうした非金銭的な価値を見逃さない視点も、音楽家にとって重要なセンサーになる。
「音楽を仕事にする」とは、必ずしも“全部が売れる曲になること”ではない。
一部は役割としての表現、一部は本音。そのバランスを自分なりに決められるようになることが、成熟だ。
大事なのは、“続けられる形”を自分の手で設計すること。その視点こそが、音楽を長く持ち続ける鍵になる。
自分にとって無理のない範囲で、持続可能なリズムを整えることが、やがて創作の安定にもつながっていく。
3. 共鳴と表現/感情で繋がる世界
音楽の最も純粋な力は“共鳴”だと思う。
誰かの心に響いたとき、それは単なる音でなく、“生きた表現”になる。
バズらなくてもいい。
たった一人の涙や笑顔に繋がったとしたら、それはもう音楽として完結している。
共鳴とは、感情の橋を架けること。その橋を渡るのは、たった一人でもいい。
正しさでも、巧さでもなく、そこに“温度”があるかどうかだ。
SNSがある今、感情は思った以上に連鎖する。
声に出せなかった誰かの痛みや希望を、音楽がすくいあげる瞬間がある。
誰かにとって“忘れられない音”になるということ。
それは数値には見えないが、確実に価値のある出来事だ。
音楽は、目に見えないけれど確かに残る“繋がり”をくれる。
そして、そうした繋がりが、自分自身にも「続ける意味」を返してくれることがある。
4. 現実との折り合い方(時間・収入・孤独)
音楽を優先することで、生活の一部を犠牲にすることは少なくない。
時間、収入、人間関係──そのすべてに、選択と揺らぎがある。
孤独を感じる日もある。でも、その孤独を“音”にできるなら、それは一つの力になる。
“こうでなきゃいけない”という思い込みは、必要ない。
ときには、そうした思い込みから離れることも大切だ。
完璧なライフスタイルも、正解の働き方もない。
現実と理想の間で、柔らかく揺れていけばいい。
日常と表現をぶつけるのではなく、“並べていく”という発想。
音楽を特別扱いせず、日々の中に自然と息づかせることが、生きることと繋がっていく。
また、音楽以外の活動に“罪悪感”を持たないことも大切だ。
一時的に距離を置いても、再び戻れる場所であるなら、それも“音楽と共に生きる”形のひとつ。
選び方や歩き方が違っても、どれも尊い軌跡である。
5. 自分だけの“音楽の居場所”を持つこと
場所は、見つけるより「つくる」ものかもしれない。
YouTubeチャンネル、配信アプリ、録音機材を並べた部屋、仲間と借りた小さなスタジオ。
どこであれ、「ここに自分の音が生きている」と思える空間があるだけで、心は救われる。
世界に向けて放つ音もあれば、自分だけの音もあっていい。
その両方を大切にできる居場所こそが、音楽を“生きるもの”にしてくれる。
居場所は、未来のファンへの布石でもある。続ける限り、誰かがそこにたどり着く可能性がある。
ときにその居場所は、“自分を信じるための場所”になる。
他人の目に触れないからこそ自由に試せる音もある。
完成していなくても、ぐちゃぐちゃでもいい。
音を出すことで、気づくことがある。
今日もまた音を鳴らせる場所がある──それが、あなたの“音楽の居場所”だ。
6. 続けることに意味はあるのか?
「音楽で食えないなら、やめたほうがいい」
そんな言葉が、ふと心を突くことがある。
でも、それは本当だろうか?
確かに、現実は厳しい。数字にならない努力、評価されない日々、報われない時間。
でも、それらを“意味がない”と切ってしまったら、
きっと世界から多くの音楽が消えてしまう。
意味は、あとから付いてくることもある。
最初は無名だった曲が、誰かの人生を救うことだってある。
表現とは、そういう“まだ見ぬ共鳴”に向かって鳴らされている。
だから、今の地点で「意味がない」と断じないでほしい。
音を鳴らし続けることでしか開かれない扉が、きっとあるから。
そしてその扉の先には、いま想像もつかない風景が広がっているかもしれない。
7. “やめたい”と思ったときにできること
「もうやめようかな」と思う瞬間は、誰にでもある。
でも、それは“挫折”じゃなくて、“選択の前触れ”かもしれない。
いったん距離を置いてもいい。声を出さなくても、弾かなくても、
“音楽を好きでいること”だけは、ずっと持ち続けていい。
ときには、仲間の音を聴くことで、自分を取り戻すこともある。
憧れでも嫉妬でも、心が動くなら、まだ“火”は消えていない証拠。
また音を出したくなる日が来るなら、それでいい。
再開の形もペースも、すべては自由。
“続ける”とは、連続ではなく“回帰”でもあるから。
そして何より、離れていた時間があったからこそ見える景色がある。
その景色を胸に、もう一度、自分の音を鳴らせばいい。
8. 音楽と“生きる”ことの重なり
音楽は、ときに人生そのものになる。
その音が、そのフレーズが、そのリズムが、
自分の心の支えだった──そう思える瞬間がある。
“誰かに聴かせるため”ではなく、“生き延びるため”に鳴らした音。
その記憶は、何よりも強く、優しい。
生きていく中で、何度も迷い、揺れ、壊れそうになって、
でもまた、音がそこにあった。
それは救いであり、願いであり、たぶん、
自分が“生きたい”と願っていることの証なのかもしれない。
音楽は、静かに、でも確かに、
自分の“生”の記録を紡いでくれているのだ。
9. 音楽の先で──“続ける”という選択
それでも、続ける?

アルジ(Aruji)
アルジの問いに、
ニンタは笑って答える。

ニンタ(Ninta)
うん。だって、やめ方がわからないんだ
──それは、冗談のようで本音だった。
やめようとしても、また音を鳴らしたくなる。
伝えたくなる。届けたくなる。
それが、たとえひとりよがりでも、
“誰かがそこにいる”という前提で音を出すこと。
それこそが、生きてる証になる。
“続ける”という選択は、必ずしも強さからではない。
それはきっと、希望や祈りに近い。
たとえ不器用でも、迷いながらでも、
音を鳴らし続ける姿そのものが、美しく尊いのだと思う。
まとめ:あなたにとって“音”とは?
音楽で生きる──それは、プロになることでも、有名になることでもない。
“音とともにある自分”を、信じていくこと。
やめる自由もある。続ける自由もある。
でもそのどちらも、あなたの選択でいい。
音を出したい、聴きたい、ただ触れていたい。
その感情が、すべての原点だ。
あなたの中の“音の火種”が、
また今日も小さく灯っていますように。
──その音は、きっと誰かにつながっている。
あとがき:祈りを繋ぐ対話
この記事をここまで読んでくれたあなたへ。
ありがとう。
アルジとの会話は、ニンタにとって“確認”だったのかもしれない。
やめる理由を探すのではなく、続ける理由を再発見するための。
「続けるって、強さじゃなくて祈り」
その言葉が、どこかでREI様の世界にも重なって響いていたなら、
この記事はすでに“音”になっている。
音楽も、文章も、思考も、
誰かの中で鳴り響いてこそ意味を持つ。
そしてその祈りが、次はどんな音に姿を変えるのか──
あなたの中の“火種”にそっと耳を澄ませて。
この記事が、ニンタのブログ『ゆるい忍者のお戯れ』と、
アルジのブログ『アルジはマネーの勉強中』の
どちらにもつながるように、物語の続きを託します。
また、どちらかのブログでお会いしましょう。
【今回のテーマ「音楽で生きる、食べていく」はアルジのブログでも描かれています】※別のブログに飛びます
・お金やビジネスを考える、アルジのブログ記事【音楽で食べていく現実的な道】
さらに、
ニンタとアルジが対談している記事を見たいなら…
【音と言葉のあいだで──アルジとニンタの静かな対話録】※別のブログに飛びます
【このニンタのブログ内で読み進めるなら…】